リスクも語ってほしい がんと闘う記者が感じた参院選
4カ月前、がんの手術を受けた。
腹を開いたが、もはや切除できる段階ではなかった。結果を告げた執刀医は「とにかくあきらめるな」と繰り返すばかり。ではどうすべきかは、語らなかった。縦20センチほどの手術跡と、1年後の生存率はこれぐらい、という厳しい数字だけが残った。
国政選挙に一票を投じる機会は、そうないかもしれない――がん患者の目で眺めると、今回の参院選がこれまでとは違ったかたちで見えてきた。
一つは、政党や候補者による政見・政策の訴え方と、医師による「インフォームド・コンセント」(十分な説明による同意)の違いだ。
患者になって知ったことだが、闘病では自らが受ける治療法や検査について判断し、選択を迫られることが案外多い。医師の説明を聞き、納得すれば同意書に署名・提出するのがインフォームド・コンセントだ。医師から説明を受けたうえで、患者が一定の範囲で医師に信任を与える点では、どこか政治家と有権者の関係に似ていなくもない。
どんな目的で何をするのかを語る点では、政治家も医師も同じだ。ただ、大きく違うのは、それによって起きうるリスクや代替手段、さらにはそのリスクまで医師が説明し、患者に判断材料を与えることだ。
私が経験した例で言えば、適切な抗がん剤を選ぶための検査を実施するかどうか。検査すれば、わずかとはいえ、細かながん細胞が体内に散らばるおそれがあるという。逆に検査せずに治療を始める手もあるが、適切な抗がん剤を選べているかはわからない。さあ、どちらにしますか――といった具合だ。
想像してほしい。安倍晋三首相が、アベノミクスの一定のリスクも認め、それ以外の経済政策もありうると語る姿を。そして野党も独自の政策を掲げ、同じように利点とリスクを有権者に語りかける光景を。
政党同士が「それでもなお、こうした理由でこの道を選ぶべきだと信じる」と訴えるかたちで論戦を繰り広げるようになれば、有権者はぐっと判断しやすくなる。
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がんと政治と言えば、第1次安倍改造内閣で官房長官を務めた与謝野馨さんだ。二つの世界を生き、4種類のがんと闘った体験を著書「全身がん政治家」に書いた。日本の財政状況をがんになぞらえ、持論である財政再建の必要性を「待ったなし」と訴えている。
「私が付き合い続けてきたがんという病気と同じで、はじめに正確な病状を告知し、それに必要な治療法を示し、患者の納得を得たうえで進めていかなければなりません。たとえ苦くても、効く薬は飲んでもらわなければならないし、難しい手術でも受けてもらわなければならない」
「治療」をゆだねる以上、政治家という「医師」の誠実さや技量はもちろん気になる。
「やると言った治療をやらなかった」「主治医だった時代にうまく対処できなかった」という批判はそれなりにわかるが、政治家の誰かに処方箋(せん)を示してもらわなくてはならない以上、お互いに批判しあうだけでは十分な判断材料にはなり得ない。
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参院選で投票先を選ぶとき、有権者はどの政策を重視するのか。
朝日新聞社が6月4、5両日に行った参院選連続世論調査(電話)では「医療・年金などの社会保障」が53%で最多。報道各社が大きく報じてきた「安全保障関連法」17%、「憲法」10%をはるかに上回った。
「医療・年金などの社会保障」は数字に隠れた一人ひとりの事情がそれぞれ違う。けれども、これだけの数字が積み上がり、奥にある一つ一つの人生に想像を巡らせるとき、その重さに粛然とする。
私は今回の病気で六つの病院に足を運んだ。出会った医療者で一番感謝しているのは、ストレッチャーで運ばれるときに「この患者さんはいま右の脇腹が痛む」と同僚たちに大声で伝えてくれた中年の看護師だ。これはあくまで肉体的なことに過ぎないが、一つの痛みに全身が支配される感覚は忘れがたい。
英語で憲法を意味する「constitution」には「体質」という訳語もある。政治記者とすれば、その変更は私たち一人ひとりに関わるテーマであり、もっと重視する人が多くてもいいように思う。
だが、それでも現実の痛みや不安にもがくとき、将来の可能性をめぐる話は後景に退くのではないか――私の中の「患者」はこうもささやく。
総務省は4日、参院選の期日前投票の投票者数が2013年参院選の同時期の1.43倍に上った、と発表した。私自身、これまで何度も利用してきたが、今回は見送った。
あとどれぐらい生き、投票できるかわからない。ならば後事を誰に託すのか。ぎりぎりまで彼らの言葉に耳を傾け、迷い抜きたいのだ。
(出所:朝日新聞デジタル(AERA.dotに転載)連載「がんと闘う記者」、2016年7月7日掲載)
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