難治がんの記者、退院めど立たず 気付いた政治、医療共通の“落とし穴”

うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回はインフォームド・コンセントの落とし穴について。

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「野上さん、明日のあれ、書いてもらってましたっけ?」

 若い男性看護師は、病室の乳白色のカーテンをめくって私のスペースに飛びこむやいなや聞いてきた。

「あれ」とは翌日する予定のCT検査への同意書だ。「いや、まだ紙をもらっていないんじゃない?」と答えると、いったんどこかへ消えてから、戻って言った。「明日は、この間の同意書が使えるからいいそうです」

同意書はインフォームド・コンセント(IC)の手続きにいるもので、手術や処置、検査の前に氏名をサインして病院に出す。実施の狙いや、受けることで起こりうる副作用とリスクについて医師から説明を受けました(「インフォームド」)、することに同意します(「コンセント」)とサインで示す。

 同意書へのサインには苦い思い出がある。

 2年前、がん切除に初めて挑んだ病院で、右脇下から体内に管を入れる処置を受けたときのことだ。サインして本番に臨むと、麻酔が効いてこない痛みと、ゴリゴリした震動が響いてくる不快感は耐えがたかった。

 数日後、またやると言われ、今度はサイン前にごねる心づもりでいたら「同意書は以前いただいたものを使います」とのことだった。同じことが患者に対して続けてなされるときは同意書が使い回されることがある、と知ったのはこの時だ。

 再び「ゴリゴリ」にのたうち回りながら「知らないうちに白紙委任状を渡していたのか」と悔やんだ。

  ◇
 そんなICでも、永田町を取材してきた目には新鮮に映った。政党幹部や候補者が選挙戦で、進めようとする政策の「バラ色の効果」だけではなく、副作用やリスクまで有権者に説明しているだろうか?

「政治にもICを」と訴えるコラムを書いたのは一昨年7月。私が文章を書く日々に戻ったのも、これがきっかけだ。がん患者としての日々と政治。二つを重ね合わせる目を開いてくれたのはICだった。

 治療でも、がん切除の手術を2度試みることには医師からも賛否両論があった。けっきょく切除はかなわず、おなかに人工肛門(こうもん)をつける不便も強いられた。それでもなお後悔がないのは、同意書にサインしたことで「最後は自分で決めた」と言えることが大きい。

 たしかにICには「医療者の責任逃れの道具に過ぎない」といった指摘もある。

 同意書にサインしない自由があるとはいっても、しなければほかに道はないから、形式的に過ぎない。「副作用とリスクが起こりうることを説明した」事実だけが積み上がり、病院からすれば、何かが起きても「説明してあったはずだ」と患者に言い逃れができる――。

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 私自身も、同意書にサインしなかった覚えはない。説明を聞くのも、同意するのも、流れ作業になっていた――。今回の入院でつくづく思った。

がん患者である私と死。その間を結びつけるルートは2つある。

 1つはがんそのものの悪化。もう1つが、動脈瘤(りゅう)ができることだ。ちなみに、今年4月以降の入院は3回とも後者の絡みになる。

 がん治療では臓器に血が流れるようにステントを入れることがある。その刺激で動脈瘤ができるおそれが生じる。動脈瘤の破裂後の出血。処置に関連して血が流れなくなることによる臓器の壊死(えし)。いずれもシビアな結果と隣り合わせだ。

 今回の入院で改めてはっきりしたのは、一昨年12月に初めて私がステントを入れて以降、主治医と私の間で「動脈瘤」が話題になっていなかったことだ。主治医が担当するのは抗がん剤治療で、私とのICも月1回のCT検査のように、目の前のことに限られる。すべての案件について「どうしていきましょうか」という話にはなりにくい。その結果として、2つのルートの片方はほったらかしになっていたわけだ。幸か不幸か、もし動脈瘤の話が主治医との間で出ていても、打てる手はなかったようだ。

入院時には、今にも臓器が壊死してもおかしくない状態を疑われた。検査の結果、ただちに壊死する状況ではないことがわかり、ようやく整理できたのが、ここまで書いたことだ。

 そして考えた。これが政治だったらどうか、と。

 政治でも、取りざたされる課題は目の前のことに限られがちだ。「急ぎの案件ではないから」と先送りされたり、のちのち「ここに書いてありました」と釈明するためかと思うほど政策関連の書類が網羅的になったりしている中に、実は大切なテーマが埋もれていないか。

 中身をきちんと詰めておかないと、知らぬ間に白紙委任状を与えていたことになりかねない――。「ゴリゴリ」の教訓も、政治と無関係とはとても思えない。

 先日の沖縄県知事選で、菅義偉官房長官は「携帯電話料金の4割削減」と掲げ、知事権限にないと批判された、と朝日新聞で報じられていた。資格がないことまでICに取り上げ、有権者にサインを求めてしまったようなものか。

昨年書いたコラムで、衆院選に初めて投票するいとこの娘に、こうアドバイスした。「まずは自分なりに、投票先を選ぶ基準に優先順位をつける。そのうえで、目の前にいる候補者の背後にある全体像にも目を配る」

 怠らなければすべてうまくいくわけではない。だとしても、信用しっぱなし、任せっぱなしはいけない。それは政治も医療も同じだ。

  ◇
 さて、私は退院のめどがまるで立たない。入院していれば安心なわけではなく、場合によっては「救命処置が難しいかもしれない」と医師から通告されている。

 自分に何ができるわけでもない。だったらもう考えないと、決めてしまう。

「今のままだと退院できない」と言いにきた医師をカーテンの向こうに見送ったあと、我がスペースを見渡した。2坪弱に本が数冊、連日の配偶者を除けば、訪れてくるのは週に数人だ。

 こんな縛りだらけの日々から、何が書けるのか。「俺、すごいことになっているなあ」「逆に面白い」という思いが一瞬、頭をもたげたが、すぐに抑え込んだ。

 求める人に合わせて神妙な顔をする。それも一つのたしなみなのだ。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年10月6日掲載)

自宅から入院先へ、どこにでもついてくる愛用の水筒。入れものの白いカップは配偶者がベッドに固定した。後ろにノートや、縦書きでプリントアウトした原稿類も

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