なぜ「配偶者」と呼ぶのか? 難治がんの記者の大学時代のほろ苦い思い出
うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は、「配偶者」という呼び方と、不義理をしてしまった尊敬する大学時代の教授について。
【2週間近く前におなかが痛み出したベッドで…】
* * *
21日午前、都内の病院を退院した。おなかの痛みで救急搬送されてから13日間と、短い入院期間ですんだ。「次の患者さんが来るまでにベッドメイクしなければいけません」と看護師に言われ、慌ただしく病室を出た。
配偶者は大きな荷物を私に運ばせまいと、3つも抱えてタクシーに乗り込んだ。彼女の勤務後の病院通いもこれで一段落だ。
「なんで奥さんを『配偶者』と呼ぶんですか」とコラムを読む人からよく聞かれる。
たいそうな理由があるわけではない。尊敬する大学時代の教授が「配偶者」を使っており、ならば自分も、と学生時代に決めてしまっただけだ。
もう結婚12年目で、これを言って他人からけげんな顔をされるのには慣れた。だがこの言葉には、いまだにほろ苦さが付きまとう。というのも教授に対し、後ほど触れる、ある不義理をしたからだ。
先生、と呼びたいが、呼べない。そのためお名前や授業内容を伏せている点をもどかしく感じる方もいるだろうが、ご理解いただきたい。
◇
私が教授にお目にかかったのは24年前だ。所属する学部には卒業論文もなければ指導教官もいない。そんな環境に甘えきっていた私に対し、同じように不勉強だった先輩から「あれだけは」とすすめられたのが教授の授業だった。
当時の授業のノートを開くと、新聞記者としてメモを取り続け、崩れてしまう前のきちょうめんな字体でつづられている。ひと言も聞き漏らすまいとその場に臨んでいたことがうかがえる。
なぜその授業にそこまで引きこまれたのか。覚えている範囲では、板書しながらほぼ一方的に語るオーソドックスな授業で、これといって変わったエピソードがあるわけでもない。それでいて、学問とは一人ひとりの人間の営みの積み重ねだということをしみじみと実感させられた。それは、不勉強なりにのぞいていたほかの授業では得られない感覚だった。
最終コマでは明治・大正時代の女性運動家が取り扱われた。「そちらの方、電気を消していただけますか」と教授に指示され、スイッチを切った。暗闇の中にある運動家の画像が浮かんだ。儒教の「夫婦有別(ふうふべつあり)」から人間はここまで歩んできたのか――。「歴史」を鮮やかに印象づける演出だった。
◇
翌年、教授のゼミに参加した。テーマ以外で印象に残っているのは、命にまつわるやりとりや雑談が多かったことだ。
前回のコラムで触れた痛み止めの麻酔をめぐっても、ほかのゼミ生とこんな議論をしたことがあった。
「麻酔が効いて喜怒哀楽を感じず、意思を示せない人がいたとする。その人は幸せか」
相手は「それは幸せとは言えないのではないか」という立場だった。これに先立ち、教授が「幸せとは苦痛を感じないことか」と問題提起をしたことがあり、これをなぞったようだった。
これに対し、私は「本人がそれで構わないのならば幸せだ」と述べた。
どんな選択肢が最良かを決めるのは本人だ。何よりも大切なのは、本人が納得しているかどうかだ――。今にして思えば、がん治療に直面する20年以上前から、その点では同じように考えていたことになる。
このやりとりが背景にあったのか。「あなたは良いジャーナリストになるでしょう」と後日、教授から言われた。予言は外れたが、失敗続きの新人記者時代に大きな励ましになったことは間違いない。
「黒澤明の『生きる』についてどう思いますか」と問われたことも忘れられない。私は正直に「『生きる』は切実すぎます」と答えた。
「生きる」は市役所に勤める市民課長が「がん」と宣告されたことで使命感を取り戻し、最後の仕事として、住民が求める公園づくりに取り組む物語だ。20代前半ではピンとこなかったものの、40代半ばとなってがんの疑いを指摘されたとき、頭に浮かんだのがこのやりとりだった。
私はそのころ全国版で予定していた連載の準備をしていた。東日本大震災発生から丸5年を迎える福島がテーマだ。「これが自分にとっての『公園』か」と思う日が来るとは、学生時代は想像もしなかった。
「配偶者」という言葉が教授の口から出たのはそのゼミでのことだ。妻、家内、女房。どれも男女平等以前の歴史を背負っている。「先生はどう呼んでいらっしゃるんですか」と、女性のゼミ生が尋ねた。答えは短かった。「私は『配偶者』です」
なるほど、と思った。頭の中と行動がすんなりつながっているのが、いかにも教授らしい。それに一歩でも近づけたら。そう思った瞬間、自分も相手ができれば「配偶者」と呼ぶ、と決めた。
言わずもがなだが、そう呼ばれる本人と出会うのはまだ10年近く先のことだ。
◇
みっともない話は手短に済ませたい。
きっかけは就職活動のため、ある日のゼミを欠席し、割り当てられていた発表をできなかったことだ。単位を取れるよう、教授からはリポート提出という救済策が示された。ところが私は、何も連絡しないまま卒業してしまった。
さほど負担でもないのに、なぜそんなことをしたのか。当時の心境がまるで理解できない。それが「配偶者」という呼び名にほろ苦さが付きまとうゆえんだ。
今年、ある先輩を通じて私が病床にあることを知った教授から丁寧な封書をいただいた。自分を覚えていて下さったことが驚きだった。私信ゆえ中身は明かせないが、先輩が渡した私のコラムへの感想がつづられていた。「毅然(きぜん)として生きねば」と、奮い立たされた。
医師によると、今回の入院の原因となった動脈瘤(りゅう)は今後も生じうると言う。そこで命をつなげるかどうかは、体が発する痛みの兆候を無駄にせず、素早く反応できるかにかかっている。
人付き合いをめぐる苦い思い出も、悔やむだけでは無駄遣いに等しい。自らを律することにつなげなくてはと、2週間近く前に身もだえた自宅のベッドに横になって考えた。
(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年9月22日掲載)
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