動脈瘤破裂で緊急入院 難治がんの記者が気づいた、意識を超えた謎の「存在」とは?
うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は、動脈瘤破裂による緊急入院の顛末をお送りする。
【入院6日目に再開した流動食。飲み終えるまでの時間を測ったら…】
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9日夜、おなかと背中の痛みで東京都内の病院に救急搬送された。
この日は朝にも腹が痛んだ。容体を伝えた病院の当直医からは「来る必要はない」と言われたが、14時間後、容体がさらに悪くなってぶり返し、5カ月ぶりの救急車となった。
「痛い」「苦しい」と声に出しては、足をベッドにダン! と打ちつけて気を紛らわせる。多いときはおよそ5秒に1度、そんなことを繰り返していた。
4月の入院では、ストレッチャーで運ばれる時に目に映った、スマートフォンの画像をスクロールするように流れていく天井が印象的だった。
ところが今回は、天井がいっこうに動かなかった。まず痛みを麻酔で抑えてから、各科の医師が集合する処置室へ、という運びだが、同じ部屋でひたすら痛みに耐えていたためだ。
医師や看護師の言葉だけ聞いていると、痛みを抑える作業は着々と進んでいるように思える。
「痛み止め(の麻酔)を準備しています。もうすぐです」「痛み止めはもうできました。そこにきています」「もうすぐ使えます」
しかし、肝心の「ブツ」は届かない。当然、痛みも消えない。実態のない言葉は聞き逃せない性分だ。痛みをこらえて言葉を振り絞った。
「痛み止めがそこにあるならば、ここに持ってくるように言ってください」「痛み止めを使ったってすぐに効くわけではない。急ぐように伝えましたか」
相手は黙り込んでしまった。
私からすれば「痛い」も「苦しい」も気を紛らわすと同時に、医師や看護師をせかすためだ。それなのに配偶者が反応し、心配そうにまゆを寄せるのがかわいそうだった。
ときどき血を容器に吐き出した。おなかの人工肛門(こうもん)からゴボゴボ吹き出す血の赤黒さと対照的に、明るく、鮮やかだった。
けっきょく麻酔が使える状態になり、効き出したのは小1時間も経ったころだ。5秒に1度のペースならば「痛い」「苦しい」と700回は言ったことになるが、けっきょく何百回繰り返したのだろうか。
後日、立ち会っていた看護師から「あんなにつらそうな患者さんを見るのは初めてだった」と聞かされた。「私はまだ2年目ですけど、5年目ぐらいの先輩も『あれは痛そうだった』と話してました」
4月の入院は動脈瘤の破裂前で、今回は破裂後だったせいかもしれない。痛みは前回以上だった。
新聞記者として不思議だったのは、自分の口から出てきたのが「痛い」「苦しい」ばかりで、この連載でしばしば使ってきた「しんどい」「つらい」が一度も頭に浮かばなかったことだ。
記者の習い性か、「痛い」「苦しい」を適当に並べ替えて、一本調子になるのを避けていたようだ。ここで出てこなかった「しんどい」「つらい」は自分にとって実感を伴わない言葉だと気づき、今後使うのはやめようと妙な決意をした。
◇
人の体は、脳みその意識を超えて生きようとしているのではないか。
今回の入院で、そう考えるようになった。
動脈は血液が流れる道路のようなものだ。だが検査したところ、動脈瘤が破裂しても、血は動脈の脇道を通って大腸のほうへ流れているとみてよさそうだった。脇道が発達したおかげで、大腸が致命的なダメージを受けるのを避けられる、というわけだ。
また、気づいたら血流の「バイパス」が新たにできている、ということも以前、別の場所で経験している。
人体とは、なんとうまく機能するのだろう。
血流ばかりではない。昨年には、食べたものを消化する臓器と臓器の間にバイパスができる「珍事」があった。「ありえないことが起きている」と医師が驚いていた表情が忘れられない。
しかもそのバイパスを先日、1年数カ月ぶりに調べたところ、ふさがっていた。またしても医師は「極めて珍しい」と言った。
このバイパスは私の暮らしや治療に何をもたらしたのか。医師にも私にもわからない。だが血流のほうにプラスの意味があったことを考えると、こちらも何らかの役割を果たし、消えていったと思わざるを得ないのだ。
病気と付き合いだして2年半。治療の知識だけでなく、こまごまとした知恵はついた。医師や看護師とやりとりするコツや、ストレスになる文章や人との距離の置き方といったことだ。
そうした判断をする「脳みそ」こそ自らの核で、全体を動かす司令塔だ。これまではそう考えてきた。
しかし、しょせん脳みそは体の一部に過ぎず、小さな役割をこなしているに過ぎないのではないか。
脳みそも手駒に使いつつ、あるときは血管、またあるときは臓器といった姿を変えて、生きながらえようとする――。さて、次はどんな手を打とうかと、着々とプランを立てている存在を思い浮かべ、厳かな気分になった。
(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年9月15日掲載)
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