難治がんで働くことを後押しする「技術」と、記者を支える「読者」の存在

うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は、連載を休まないことの意味と、スマートフォンのフリック入力について。

【メールボックスの下書きに書き溜めたメモ…】

*  *  *
「今、しゃべってるよ。聞こえる?」

 手元のスマートフォンに話しかけると、隣の部屋にいる配偶者のタブレットから少し遅れて自分の声が聞こえてきた。

 画面の右上に、私と彼女の顔が並んで映り、ゆっくりと動いている。

 仕事の打ち合わせにスマートフォンのビデオチャット機能を使えるか。結論は「使える」だった。

 会社に出かければ、予定外の人に出くわし、時間や体力だけでなく「気」も使う。この機能ならばその心配はなく、画面上に「集まった」人たちが顔を見て、時間差なく話を進められる――。

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 今の私は書くことが生活の中心にある。それだけに、スマートフォンのない暮らしは考えられない。何か思いつけば時間も場所も問わずにメモを書きつけ、保存できる。原稿を担当者とメールでやりとりし、完成品がネット上に公開されれば、SNSで拡散し、感想も読めるのだ。

 もともと書くのはノート型パソコンで、スマートフォンは電話だった。それが今のようになったのは「けがの功名」というほかない。小指、薬指がしびれる抗がん剤を使っていたころ、ミスタッチばかりのノート型パソコンとはほぼ縁が切れた。その代わりにスマートフォンでフリック入力を試してみると、アイデアが頭に浮かび、確かめるのと同じような速さで書けるようになった。

 考えるはしから、文字にしてはき出せるため、次々に考えることが可能になる。フリック入力に挑んでいなければ、今のように考えたり、連載したりすることは難しかっただろう。

 日本では2人に1人がかかるとされるがん。治療しながら働くのを後押しするのは、こうした技術と、利用をいとわない心ではないか。

スマートフォンの代名詞、iPhoneを「電話の再発明(reinvent)だ」と言って世に送り出したのは、スティーブ・ジョブズだ。彼もまた膵臓(すいぞう)がんを患っていた。

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 2日間と5日間。私の1週間はおおむねこの2種類に分けられる。

 週末に2日間休み、平日に5日間働くという暮らしではない。

 2日間はこの連載の原稿をまとめ、担当者とやりとりする日。

 残る5日間は、その他もろもろにあてる期間だ。スマートフォンの機能のチェックから原稿の材料集めまで、体調が悪化することを見越して並行して進める。たとえば、いつか原稿に生かすために、あるイベントをのぞくかどうか。「この日に体調を崩しても執筆まで2、3日あるから間に合う」といった具合に見極める。

 もっとも、こうした二分は表面的なものに過ぎない。

 ものごとを考えては、数段落の短文にまとめ、メールボックスの下書きフォルダーに保存していく。そうした下準備に日にちも、場所も関係ない。

 この短文は、いわばお団子のようなものだ。テーマという串によって、必要なものをいくつか引っ張り出し、その場でこしらえたお団子と一緒に串刺しにする。そんなイメージだ。

 短文には2種類ある。

 一つは「スマートフォンの機能を試したら体がゾクゾクしはじめ、40度近くまで体温が上がった」といった情景や心境のスケッチ。日常から「がん患者らしいリアリティー」を切り取ったものだ。

 もう一つは「自分のがんを出発点にすると、世間をこう論じられる」というエピソードやアイデアだ。最近で言えば、膵臓がんだった現職の急逝で実施される沖縄県知事選や、乳がんだったさくらももこさんの逝去などだ。

 永田町の動きもここに含まれる。ここで難しいのは、がん患者としての実感を伴ったことを書くと、多くのテーマで結論が似通いかねないところだ。

 たとえば、私は5月の党首討論を新聞記事でこう批判した。

「人の持ち時間には誰にも限りがある」
「機会を十分生かさないのは不真面目に見える」

もしも今回の自民党総裁選のことを書くとしたら、立候補できなかったり、立候補を見送ったりした政治家に、同じ言葉をぶつけるのではないか。難しい病気の患者ならば「どうするのが体に一番いいのか」というシンプルな目標に沿って時間の使い方を決め、全力を尽くしている。それに比べて政治家の本気度はどうか――と。

 がん患者としての実感が言葉にこもるほど「バカのひとつ覚え」のような文章に映るとしたら、やるせないことだ。

  ◇
 この連載は昨年9月に始まった。初めは体調不良で休載すると見込んでいただけに「休まない」ことが目標だった。ところが意外にも、一度も休まないまま2年目を迎えることになった。休まないことは読者にとっても意味があるだろうか? たまたま読者の女性からメッセージをいただいたのを幸い、率直に疑問を投げかけた。

 ほどなくスマートフォンに返事が届いた。

「読者にも継続の意味、あります、あります!」

 ありがたいことに彼女は、コラムが公開される土曜日を楽しみにしてくれていた。そして次の土曜日までの1週間、「しっかり味わって生きることを意識しだした。」という。コラムの内容を味わうだけではない。「そこから自分の生についても考えるんです」と。

 書いている私と読んでいる彼女が顔を合わせたことはない。それなのに、それぞれにコラムを軸にした1週間があり、互いにシンクロしている。そう考えると、不思議な気がした。

「コラムを書く野上さんの隣や周りに、今はたくさんの人が一緒に歩いている。そんな想像をしています」。画面上の文字に、空想がふくらんだ。

 がんを抱えている私が先頭に立ち、「こっちに進め」と教え導いているのではない。ただみんなが同じ方向へ、おそらくは笑顔を浮かべながら、ゆっくりと歩んでいる。

 そんな温かくすがすがしい風景が、脳裏に広がった。 (出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年9月1日掲載)

筆者がふだん使っているiPhoneのメールボックス。下書きフォルダーに「411」の数字が見える

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