難治がんの記者が考えた、政治家が「握手」をする理由
うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は「握手」について。
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握手とは、政治家がするのを「見る」ものだと思っていた。それが、求められたら「する」ものに変わったのは、がんになり、たくさんの方にお見舞いされるようになってからだ。
別れの時が迫ると、相手は右手と、それを差し出すタイミングを気にしはじめる。「元気になれよと、最後にだめ押ししたい」「きょう伝えたかったことをまだ伝え切れていない」といったところだろうか。
こちらとしても、相手に会えるのはこれが最後かもしれない。大切な時間を使ってくれたことへの感謝もある。気持ちよく握手して別れたい。
手を出すのが早すぎれば、握手するつもりがない人にまで催促しているようだし、遅れたら相手の手は宙をさまよい、気まずい思いをさせてしまう。
だから、「そろそろかな」と感じたら、相手の手先といった一点を凝視せず、のど元あたりになんとなく目線を置いておくようにする。そうすると、体のどこかが「静」から「動」に移るのが見えるのだ。
スッと伸びてきた手をパッと握る。ホッとしたのか、相手が改めて手に力を込めるのを、ギュッと握り返す。
お大事に。体がよくなることを願っています。
ありがとう。きっとよくなるよ。
にこっと笑いかけ、ウンウンとうなずく。
学生時代に稽古していた合気道では、相手の動きが起こる「出ばな」を「イマのイ」と呼んでいた。「今(イマ)」が始まる瞬間を見逃さない癖が、こんな時に顔を出す。
難しいのはここからだ。握る手にギューッと力を込めていっても、刺激が単調だから、気持ちの高ぶりを表現できないのだ。ならば力を強めたり弱めたりしてメリハリをつけてはと思ったが、一度で「これはダメだ」と気づいた。
ふにゃっと弱めると、手先にこもっていた思いともども散り散りになり、消えてしまう。「これで握手はおしまいか」と手を放そうとする相手の手を慌てて握り直しても、途切れた思いがよみがえるものではない。
では、どんなやり方をすればいいか。
答えは、握手の元々の呼び名にあった。
Shake hands
「揺さぶる」。握手とは、複数形の「hands」、つまりお互いの手を、「揺さぶる」ことなのだ。
◇
地面に手ごろなロープが放り出されていると想像してほしい。一方の端をつかみ、上下に波うたせるのが「shake」だ。「山」は向こう側に移動していく。
つないだ2人の手をロープに見立て、波打たせてやると、こちらの思いは手先を通じて相手へと流れ込む。それはあなたに向けたものですと、目で相手に伝える。
ブルン、ブルン。ブルン、ブルン。
二拍子、数秒間の儀式だ。
◇
6月12日、ある2人の握手に世界中が注目した。
米国のトランプ大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の2人だ。
朝鮮半島の核廃棄をめぐる歴史的な会談を終えた2人は、画面の両端から姿を見せ、真ん中で相まみえる。
さあ、どんな握手をするのか。
動画の再生速度を4分の1に遅らせて確かめた。
どこからどこまでが1回か、数えづらいが、36回は手を揺らしたようにみえた。上下ではなく、手前に引いたり押し込んだり。引っ張り合いにも見える。
また、握手をするのは政治家とは限らない。
その1週間後の19日。サッカー・ワールドカップのコロンビア戦で勝ち越し点をあげた大迫勇也をめぐり、高校時代の握手が話題になった。
発信源は試合後、SNSで広まったテレビの映像だ。2009年の全国高校サッカー選手権で、大迫のチームに敗れた相手校の監督が「おれ、握手してもらったぞ」と自分の高校の選手たちに話していた。
日常的でない行為だからこそ、言葉だけでは表現できない思いまで表すことができる、ということだろうか。
知り合いの政治家が「握手をすると、相手が本当に応援してくれるかわかる」と言っていたのを思い出した。好意を伝えつつ、ときには相手の真意をはかる。支援者や同僚議員、緊張関係にある相手と、政治家がのべつ幕なしに握手する理由がなんとなく分かる。
◇
コロンビア戦の熱気が一段落した27日午前5時。薄闇の中で目覚めると、全身がポッと火照っていた。わきの下で体温計がピッと鳴る。「40.0」と表示されていた。いったんは入院を覚悟したものの、幸い、熱は下がりだした。
落ち着いたところで朝日新聞の朝刊を手に取ると、1面トップにこんな見出しが並んでいた。
「細野氏 選挙中に5000万円受領 証券会社から 当初報告せず」
「監視委調査後に返却」
「『政治資金 個人で借り入れ』」
「解説 処理方法に疑問 説明責任」
記事には細野豪志元環境相の四角い顔写真が添えてあった。
細野氏の初当選は2000年。投開票日の夜、私の顔をのぞき込み、「今後もご指導をお願いします」と両手で握手を求めてきたのは、この顔だった。
落下傘候補として静岡県三島市に住み着いた彼は、沼津支局員で三島市を担当していた私の1学年上。
当時はお互いまだ20代だった。 (出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年6月30日掲載)
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