「難治がん」の記者 無信心の私が「宗教の存在が無意味ではない」と思う理由
うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。45歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は宗教について。
【野上さんが撮影した「7」続きのナンバー】
* * *
駅のホームで線路の上を見上げると、白いものがちらついた。
灰色の石垣を背にした2匹のモンシロチョウが、風に吹き上げられては落ちる木の葉のように、互いに上下し、左右に流されていた。
風景はそよとも動かない。だが私が風を感じないだけで、体重0.1グラムの体には空気の揺れすら突風になるかもしれない。
ふと思った。彼らは羽ばたきの何割をコントロールできているのだろう? こっちにひらひら、あっちにひらひらと漂うだけで、どんな軌跡を空間に描くか、自分で決められないのではないか。
これに対し、十割とは、目指す先へと一直線に等速で進んでいくことだ。時に突風が吹き付けることがあっても、やがて直線上に戻り、また羽ばたきだす。そこに人の生き方の理想をみる。
ホームには人があふれていた。東南アジア系とみられる留学生たちが顔を突き合わせ、笑い声を上げていた。将来の夢と今を結ぶ直線上にいるのだろうか。そして、それを眺めている自分は――。
◇
数日後。私は羽ならぬ両手をバンザイして、病院のCT検査の台に寝そべっていた。右腕に太い注射針を刺された姿は、まるでピン留めされた昆虫標本のようだ。
注射針から造影剤が流れ込むと体がカッと熱くなる。
「息を吸って。止めてください」
いつもの男性の音声に、スーッと息を止めながら考えた。
目いっぱい吸ったほうが肺が広がり、体内がよく映るだろうか。が、映りすぎて小さな病変が見つかるのは嫌だ――。
それが見つかるとしたら、今使っている抗がん剤に耐性ができ、すでに効かなくなっている証しだ。「言霊ではないが、悪い事態を思い浮かべたら現実になってしまいそうだ。考えないことにしよう」。そんな誘惑にかられる。
しかし、これは誤りだ。悪い事態が起きても動揺せず、次の治療に向かうためには、前もって思い描いておいたほうがいいのだ。
こうした誘惑はたびたび襲ってくる。ほかにも嫌な気分や緊張感にさいなまれることもある。気づいたら、すりつぶす。とにかくこの一手だ。
すりこぎとすり鉢でゴリゴリやる姿をイメージしてほしい。思いが粉末になり、風に飛ばされれば、あとには何も残らない。まっさらな気持ちで病気に向き合える。
また、何かに「願をかける」誘惑にかられることもある。
以前、私の新聞記事に漫画を描いて下さった漫画家、宮川さとしさんに『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』(新潮社)という作品がある。そこには「この坂を1回も足をつかずに下れたら、お袋のがんは小さくなる」と、宮川さんが両足を上げて自転車にまたがる場面が出てくる。
私自身も一昨年、がんかどうかを精密検査で調べていたころ、目の前に「7」続きのナンバーの車がいるのを見て「いいことがあるのでは」と、写真を撮った覚えがある。もちろん、いいことなど何もなかったけれど。
願かけは、わらをもつかむ思いでいる人の心にそっと忍び込む。いったんすりつぶしても、気づくとまた新手が次をうかがっている。しつこい相手だ。
◇
困難を抱えている人がすがるものの代表といえば宗教だ。
私はもともと、霊魂や神仏、死後の世界といったものは一切、存在しないと考えている。人が神仏を頼みにすることにも冷淡なほうではないか。
大学受験を1年後に控えた高校2年生の冬休みのことだ。正月のテレビドラマでこんな場面を見た。
目を血走らせた宮本武蔵が寺社に駆けつける。ある勝負での勝利をまさに祈ろうとした瞬間、ハッと悟ったような表情になり、目を見開いて叫ぶ。「我、神仏を頼まず!」
俺もやってみるかと、両親に冗談を言った。湯島天満宮など、合格祈願で知られる神社を参拝し、受験生でごった返す拝殿まで進んだところで「我、神仏を頼まず!」と声を張り上げる。そうやって周りの受験生たちの神頼みをからかう――。もちろん実行はしなかった。が、宗教に対してはいまだにそうした感覚を引きずっている気がしてならない。
がん患者になると、お守りやお札をいただくことが増える。通常業務を離れ、人の生き死について考える時間的な余裕も生まれる。これだけの条件に恵まれれば、いつか宗教心や宗教的な感情が芽生えるのではないか。病気になって以来、自分の心の動きを見つめてきた。
確かにお守り、お札はたくさんいただいた。お見舞いのフラワーアレンジメントが入っていた一辺20センチ前後のバスケットに、「よく神様同士がケンカしないね」と冗談で言うほど、各地の「有名どころ」が集まっている。中には学生時代にアルバイトしていた神社を配偶者と散歩がてら訪れ、買い求めたお札もある。どれも「病気がよくなってほしい」という素朴な思いと、今の人間関係をかたちにしたもので、宗教という感じはしない。ちょうだいしてバスケットに納めたらおしまいだ。
霊魂と神の存在を否定した思想家に明治時代の中江兆民がいる。僧侶が病室に強引に入り込み、加持祈祷(きとう)を試みた時、怒って枕を投げつけようとしたエピソードが伝わる。無宗教の告別式を始めたのも兆民だ。お守りを拒まない中途半端な私も、かくありたい、と思う。
それでは、病身の私にとって宗教はまったく無意味なのか。考えてみると、そうでもなさそうだ。
なるほど「宗教を頼みとしない」との思いは一貫している。それが、自分は何かにすがらない「強い」人間だという自己暗示を生み、体調が悪くても物事の判断を他人任せにすまい、との決意につながるのだ。
宗教の存在が無意味ではない、とはそういうわけだ。ならば、感謝するのが筋に思えるが、この場合、いったいどの神仏にこうべを垂れたらいいのだろうか。
(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年5月26日掲載)
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません