「難治がん」の記者 「日本人に戦争をさせるのは簡単だ」と確信した“沈黙”の夜
うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。45歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は学生時代のある夜を振り返ります。
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15日昼に偶然入ったそば屋は、まずかった。前日の店の「うまくない」をはるかに超えていた。すべては入院でこのところ遠ざかっていた、うまい店のせいだ。そこに出会ってから、それまで味を意識せずに飲みくだしていたそばの多くが「まずい」に仕分けられた。
がんによる物事の見え方の変化も、これと似ている。確かに、「ショック状態に陥ったら……」「動脈瘤(りゅう)が破裂したら……」と医師から唐突に「命」を持ち出される日々は変わらない。だが「できないこと」がはっきりすると、ほかはすべて「できること」として意識され、「ならば、やろう」という気持ちがわいてくる。コラムのPR動画づくりや、かつてならば控えていた会合への参加、SNSでの詳細な書き込み。人に会う機会は今週は2件、来週は3件とめっきり増えた。
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二分法であれば、政治や国際環境も「変えられること」に入る。
もちろん、これには「われわれ日本人」は「自らも加わって変えていくことができるものとして国際環境をとらえることが少ない」(高坂正尭『日本存亡のとき』)といった指摘があるにせよ、だ。
変えるヒントは病気の治療にある。
まずは治療が必要かどうか、現状をつかむ。必要ならば「どんな選択肢があるか」「副作用は」と検討を進め、適切なものを選ぶ。
たとえば今回の入院では、命取りになりかねない動脈瘤がまたできて破裂するおそれがあることがわかり、二つの案を示された。医師は「血液をサラサラにする薬を飲んだほうがいいという説と、飲まないほうがいいという説があります」と言った。そのためX線撮影や血液検査を重ね、朝の薬のラインナップに直径7ミリの白いひと粒が加わることになった。
私が福島総局で働いていた2015年9月。街頭で反対の声が盛り上がるなか、国会では集団的自衛権行使の限定容認を含む安全保障法が成立した。
当時の国会やメディアの状況を、安保法制に賛成する細谷雄一・慶大教授は著書『安保論争』(ちくま新書)でこう指摘している。
「もっぱら憲法解釈上の技術論(略)に終始するなど、日本を取り巻く安全保障環境の変化(略)について、深みのある議論が聞かれることは稀(まれ)だった」
確かに当時の印象では、中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル問題をどうみるかや、それまでの外交・安保政策の是非などは深掘りされなかった。このうち、民主党政権時代も含めた日本の対北圧力路線には最近、米朝首脳会談に向けて米国、韓国が対話に傾くなか、「蚊帳の外」といった批判も出ている。そのころ議論しておく手はあったと今にして思う。
当時の朝日新聞の報道に対する私自身のイメージも、指摘と重なる。
しかし、と考える。仮に私がその場にいたとして、日本を取り巻く情勢という議論の出発点によりスペースを割くよう、社内で提案できただろうか。
「法案の必要性を認め、成立を後押しすることになる」「憲法を重視する読者の期待を裏切る」。そう非難されて居づらくなるのではと、あるかどうかも分からない事態を勝手におそれ、口をつぐんでいたのではないか。
とはいえ、「共謀罪」法の成立によってますます窮屈な世の中になるおそれがある。「正しいこと」はむろん大切だが、同時に「言いにくいこと」を言う訓練を積んでおかなければ、相手が身内から時の政権に代わった時に「言論の自由」をめぐり対峙できないのではないか。
学校で子どもたちは、いじめを見過ごさずに声を上げろ、と教わる。新聞記者などの大人も、勤め先が自社の「正論」一色に染まりそうになったら、異論を唱えて混ぜっ返すことだ。社論が賛否どちらでも、多様性を取り戻し、分断の「向こう側」に声を届ける。ある政策を是とするか、非とするか。最後に決めるのは新聞社ではない。国民、読者だ。
つい熱くなり、長くなってしまった。かつて三谷幸喜脚本で、元SMAPの香取慎吾が出演した「合言葉は勇気」というドラマがあった。そう、大切なのは周りとぶつかる勇気だ。
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私には、勇気を出さずに沈黙した苦い思い出がある。
大学4年生の時のことだ。運動系の団体に所属する友人に誘われ、大学の宿泊施設に行った。
到着すると、彼の同級生に頼まれた。「1年生をだまします。クイズ大会では金をバンバン張って、どんどん答えてください。早押しボタンを押せば、ぜんぶ正解にします。金はお渡ししますから」
夜、問題のクイズ大会が始まった。
4人ほどに分かれたグループで、上級生たちは「じゃ、おれ1万」「おれも」と、あらかじめ渡されていた札を財布から切っていく。早押しボタンを押せば司会役が「正解」と判定するから、上級生の手元には札がみるみる集まった。
1年生は「おかしい」とすぐ気づいたはずである。なんと答えてもすべて不正解になるのだから。すぐに「もう金がありません」と青ざめた。それでも抜けさせてはもらえず、キャッシュカード、時計、メガネと、次々に巻き上げられていった。
クイズの途中で、上半身裸の1年生が上級生に連れられてきた。おなかに顔が描かれている。「皆さんを笑わせて」と言われて2、3度、ぐにゃぐにゃと、腹踊りのように身をよじったが、笑えるはずもない。「笑いは悲しみの中にある」と私が言うと、上級生は「なるほど」とペンのキャップを開け、リキテンスタインのポップアートのような涙を目の辺りに描き加えた。再び、ぐにゃぐにゃ。表情の死んだ1年生は最後までひと言も発しなかった。
そうして2、3時間はだましただろうか。すっかり表情を失い、死んだ魚のように目をどろんとさせた1年生たちに、上級生が種明かしをした。
よかった――という歓声は上がらなかった。うっかり信じたら、もっとひどい目にあわされるのではと、黙り込んでいた。ようやく彼らに笑顔が戻り始めたのは、巻き上げられていた金や品物が返されてからだ。
翌日、派手なアロハシャツで海にナンパに繰り出していった彼らの笑顔に、ほっとすると同時に、前夜の死んだ表情を思い出した。
いま振り返って何がおそろしいかといえば、上級生たちがあくまで「紳士的」だったことだ。殴る蹴るの暴力どころか、声を荒らげていた記憶すらない。私が見た範囲では、ただ「ここではそうするものだ」という雰囲気をつくっただけなのに、1年生たちは誰ひとり反抗せず、言われたことに最後まで黙って従い続けた。
あの夜、「日本でまた戦争をしようと思ったら簡単だな」と、友人に言ったことを覚えている。あるいは「日本人に戦争をさせるのは簡単だ」だったかもしれない。今もその確信は変わらない。その私もまた、周りの雰囲気を壊さないように役割を守り、表情が死んだ集団を見ても「やめよう」と声を上げなかった1人なのだ。
あれから20年以上たった。国会では責任ある立場の公務員たちが本心をのみ込んだような答弁をしている。
何をそんなに恐れているんだ。そう思うたびに、もうひとりの自分が問いかけてくる気がする。そんなことを言う資格がお前にあるのか? と。
(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年5月19日掲載)
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