「難治がん」の記者 今振り返る、政治記者として対峙した「3.11」

うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。45歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は3.11を振り返る。

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 枯れ木のような色のメカブに熱湯をかけると、サアッと新緑になる。その動画をみた瞬間、「食べたい」と体が反応した。配偶者がデパ地下で買ってきてくれたが、岩手県大槌町の「あれ」じゃなきゃダメだ。ネットで取り寄せて袋からざるに空けると、そこは磯だ。映像からは伝わらない強い香りが、部屋に漂いだした。

 私は初任地が仙台で、2年前に病気で離れるまでは福島にいた。東日本大震災による被害が大きい被災3県で唯一、働いてないのが岩手県。食べて応援したい……そんなこざかしい思いは、磯の香りを口に含むと吹っ飛んだ。

 気楽なもんだと、思わば思え。病状が進んで抗がん剤を切り替えれば、ものを味わえなくなるかもしれない。ならば今のうちに何を食べておくか。決めるときに震災が頭をよぎるとは、7年前のあの日、思いもしなかった。

  ◇
 2011年3月11日。

 私の「3.11」は東京・赤坂の議員宿舎で始まった。

 朝日新聞が朝刊1面トップで菅直人首相の疑惑を特報していた。「菅首相に違法献金の疑い 104万円、在日韓国人から 首相側は未回答」と大きな見出しが紙面に躍っていた。

 外国人献金問題では、民主党のリーダーの1人である前原誠司さんが子どものころから顔なじみだった焼き肉屋の女性から寄付を受け取り、5日前に責任をとって外相を辞任したばかり。

 新たな疑惑に自民、公明といった野党がさらに勢いづくことは確実とみられた。森友問題や加計問題に揺れる今と違い、当時は参院で野党の議席数が与党を上回る「ねじれ国会」。国会の主導権を握る野党に対し、首相や政権が厳しい立場に追い込まれるのは明らかだった。

私はそのころ、国会の動きを与党側で取材する「国対番」。議員宿舎の玄関に現れた民主党の国会対策委員長、安住淳さんと「サシ」の状態で、朝刊を渡した。その日の審議をどうしのぐか。「(相手が外国籍だったことを)『知らなかった』って言えば終わりだろうけどな」と相手は言い残し、ハイヤーに乗り込んだ。

 それが政権の幕引きのシナリオだった。午前の参院決算委員会。首相は「外国籍の方とは承知していなかった」とその線で答弁したが、野党が許すはずがない。「朝日新聞は菅政権にとどめを刺すつもりか」。ぼやき、恨み言、いらだち。民主党幹部からはそんな声が漏れてきた。

「嵐の前の静けさか」。そう。時計の針がまったりと午後に進んだとき、「嵐」はまだ首相のクビ程度の話だったのだ。

 午後2時46分。

 国会の建物が波打った。

 ミシッ、ミシッときしむ音が聞こえる。ゆっさ、ゆっさと緩慢なリズムで辺りが揺らぎだした。

衆院2階の廊下から目の前の民主党国対の部屋に飛び込むと、床に書類が散らかり、職員たちが椅子から立ち上がっている。

 のちに東日本大震災と呼ばれるようになる歴史のページがめくられた。

 衆院と参院それぞれの中庭に池がある。津波を暗示するように水面が波打ち、水があふれ出していた。

 天井を見上げると、シャンデリアがぶら下がった根元に亀裂が走っている。けが人が出ないよう、誰かがその下に立ち入り禁止の赤いコーンを持ってきた。小さいほうの記者室も、資料が散乱している。

「何か起きたらまず写真を」は新聞記者の基本動作だ。衆院と参院を行ったり来たりしながら、目につく端からスマートフォンで撮っていった。

 読売新聞の国対番にあきれられた。

「こんなの撮ったって紙面で使われないよ。ここでこんなに揺れてるんだから、震源近くはもっとすごいことになっている」

 その一言でようやく我に返った。建物の屋上で救助を待つ人々、津波から逃げ惑う人々。まもなくテレビにはそんな姿が映し出されることになる。


 職員たちが棒立ちになった国対部屋の一角。安住さんがテレビの前にかがみ、NHKの中継を食い入るように見ながら、携帯電話で誰かと話していた。

 安住さんの選挙区は宮城県石巻市や女川町といった沿岸部だ。やがて津波により、多くの命が失われることになる。

 実は私はその5日前、そこを訪れている。

 けっきょく前原さんは外相を辞めるのか、辞めないのか。その晩に結論が出る事実について、安住さんの感触を探るためだ。

 帰京する先方の車に同乗してJR仙台駅に向かう途中、紳士服をはじめとするチェーン店が道沿いに続く街並みが見えた。

「どこの街も同じような風景になっちゃいましたね」。何げなく言うと、先方も「んだな」と、あいづちを打った。

 その自分のひと言を今、罪深い、と思う。

 その風景は1週間も経たないうちにほかの地方都市と「同じ」ではなくなるのだから。

 ごく個人的なことだが、今の私にとって体調がこれまでと「同じ」であること、身の回りの風景が同じように映ることはありがたい。同じで何がいけないのか。まあ、言いがかりのようなものではあるのだが。

  ◇
 震災が起きた時、「ねじれ国会」の永田町にどんな風景が広がっていたのか。以下は私が震災前に書いた署名記事の見出しだ。

「対決国会、『熟議』の兆し 農村振興など、与野党妥協し法成立」 (2010年12月4日付朝刊)
「民主、苦肉の国会戦術 法案成立率向上狙い、ねじれ対策練り直し」(同月8日付朝)

 前者はこう始まる。

「非難合戦が目についた『ねじれ国会』。だが、与野党がねばり強く話し合って合意にこぎ着けた法案もあった。互いのメンツを捨て、国民益を実現するために、わずかに顔を出した『熟議』の芽をどう育てていけば良いのか。すべての国会議員が考えるべき課題だ」

 熟議の兆しへのかすかな希望。その裏に非難合戦へのもどかしさ、政治への強い不信感があったことが言葉の端々から伝わってくる。

 そこに震災が起きたのだ。

発生当日の夕方。与野党国対委員長による会談、いわゆる「与野国(よやこく)」がセットされた。

 ついさっきまで対決姿勢を続けてきた野党が、今後提出される復旧・復興関連の法案にどう対応するか。それが焦点だった。

 長く政権を担った政党だ。「ねじれ国会」に乗じて審議を政争に利用することはあるまい、と考えた。ただ、「危機だからこそ現政権には対応を任せられない」との理屈もありうる。

 さあ、野党はどう出るかと、ふだんなら考える。だが、この時は「それだけでいいのか」との思いがわいてきた。

 いまは「ふだん」ではないのだ。どう「出る」かと待ち構えるのではなく、どう「出させる」か。そのために何ができるか。そこを考えるべきではないか、と。

 もともと私は政治記者が「プレーヤー」になることには批判的だ。

 親しい政治家のスピーチ原稿を代筆する。選挙に出た知人の応援演説をする。政治家を引き合わせる。報道内容を「調整」する。そうした姿を見たり、うわさ話を聞いたりしては、いかがなものかと感じてきた。

 政治報道には、結果からみれば特定の政治家、政党のプラスになってしまう面がつきまとう。だからといって、初めからそのつもりで報じたり、「その相手にプラスをもたらさない」と決め打ちしたりすれば、政治目的を持った「プレーヤー」に陥る。その競合相手に対してならば結果的にプラスをもたらしても構わないのか。考え始めるときりがない。

――少々脱線した。要するに、それだけ「プレーヤー」になることを警戒する私が、この時ばかりは一線を越えると腹をくくった、ということだ。

 自分なりのやり方で与野党の政治休戦をだめ押しする。

 政治にかけてみよう、と思った。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年4月21日掲載)

※イメージ写真(撮影/写真部・松永卓也)

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