「難治がん」の記者 抗がん剤による脱毛の悩みはどれほどか。かつらを被って近所を歩いて考えた

働き盛りの45歳男性。がんの疑いを指摘された朝日新聞記者の野上祐さんは、手術後、厳しい結果を医師から告げられる。抗がん剤治療を受けながら闘病中。

【「政治評論家風」も? 野上さんが実際に試したウイッグはこちら】

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 自宅の玄関で鏡に向かい、きちんとかぶれているかを確かめた。ドアを開けると、拍子抜けするほど風はなく、おだやかな日差しが降り注いでいた。自宅から「半径500メートルの政治記事」を書こうと、前回歩いたのは7カ月前、北朝鮮が弾道ミサイルを発射した日のこと。第2弾となる今回はかつらをテーマにした。

 抗がん剤の副作用による脱毛などに悩む患者が、医療用ウイッグや帽子などで見た目を整えることをアピアランス・ケアという。国会では、6月6日の参院厚生労働委員会で公明党の山本香苗氏が「がん患者が治療しながらこれまで通りの日常生活を送るために仕事を続けていく上で大変重要」と指摘したテーマだ。

 原発事故で都内に避難している福島県南相馬市のある男性は大腸がん。先月会ったとき、「『外に出るときは帽子を忘れないで』と女房が家に何カ所も張り紙をしている」と漏らしていた。

 さて、歩き出すには準備がいる。ベッドで横になりながら国会と地方議会のめぼしい議事録を検索し、乳がんで医療用ウイッグを1年半ほどつけていた国会議員秘書の女性(56)に体験談を聞きに行った。ネットで取り寄せた「お試し無料」のかつらはボリュームがありすぎるが仕方ない。もともと、買ったら自分用にカットするように作られているのだ。

 近所で知り合いに出くわすと面倒くさい。ただでさえ体調を尋ねられる機会が多いのに、かつらのことまで話している時間はない。

 知り合いに見つからないように歩いてゆくと、むかし1年ちょっと通った小学校の校庭で子どもたちが遊んでいる。校門には笑顔の子どもたちと「なかよし」 の文字が描かれたポスターがある。

 女性秘書はウイッグをつけてからも、知り合いに会わないよう、クラス会に一切出なかったそうだ。病気で髪が抜けた子どもがからかわれたり、いじめられたりしないために、「抜ける前の長い髪を病気の子どもたちのために寄付しておけばよかった」と悔やんでいた。

 その先にある高層ビルの階段付近は、このあたりで一番の「強風スポット」だ。ビル風でコンタクトレンズを吹き飛ばされたと配偶者がこぼしていたのもここだ。

 抗がん剤の副作用による歩きにくさは前よりましになったが、念のため、片手を階段の手すりに添えることにする。いつ風に吹かれるかわからないから、もう片方のノートを持った手で頭を押さえた。手にしていたのが重い荷物だったら、無理だった。ビルの大きな窓ガラスに近寄り、かつらがずれていないか確かめた。

 さすがに駅前は人通りが多い。今年の都議選と衆院選では、候補者らがマイクを握る姿をよく見かけたものだ。

政治家でかつらの話題といえば米国のトランプ大統領だ。ユーチューブでは、かつら疑惑を晴らそうと有権者に髪の毛を引っ張らせたり、テレビ番組の司会者に頭をめちゃめちゃにされたりする動画がみられる。

 一部の人たちの間では、かつらが誠実さをはかるリトマス試験紙になっているようだった。「不都合な真実」を隠そうとしていないか。疑惑を晴らそうとする姿勢はあるか。別にかつらだろうと政治をするのに何ら問題ないはずだが、フェイクニュースや、そうしたレッテル張りの風潮を反映しているのだろう。

「半径500メートル」は自宅から最寄り駅までの距離だ。前回にならえば、駅に着いたところで引き返すべきなのだが、いま一度頭を強風にさらそうと、そのまま改札口を通ってホームに降りた。列車が滑り込んでくる。突風が起き、反射的に頭を押さえる。

 車内でも乗客の視線は案外、気にならなかった。かつらだとばれても構わないと開き直っているせいだろう。切実な事情を抱えていれば、そうはいかない。

二つ先の駅で列車を乗り換えて折り返した。再び「強風スポット」を通り、帰宅した。けっきょく家に着くまでかつらはずれなかった。「かつらが風で飛ばされるのはサザエさんと、ドリフ、昭和のお笑いだけ」。アピアランス・ケアを担当する病院のスタッフの言葉を思い出す。

 医療用ウイッグの購入をサポートする動きは徐々に広がりつつある。東京都港区は今年4月、3万円とかつら購入経費の7割のうち、低いほうを助成する制度を始めた。100人が利用する想定だ。冒頭紹介した参院厚労委では、山本氏がこうした例をあげて「国としての支援」を求めたが、厚労省側は「自治体がどのように支援しているか実態を把握してまいりたい」と答弁するにとどめた。

  どこに住んでもサポートを受けられる社会と、外見を取り繕わずに働ける社会。目指すべきは後者だろうが、そこまで社会が成熟するのは簡単でないことはわかる。

 治療しながら働くには様々な課題がある。「病気だとわかると、それほど親しくない人に一から説明しないといけないのがわずらわしい」という女性秘書にとって、ウイッグは自由を与えてくれるものにほかならなかった。

 かたや私は、病人にみえたほうが気楽だと感じることがある。しんどくて電車の優先席に座るときなどだ。もちろん、仕事や職場のことでわずらわしさがないではないが、それは外見を整えて解決できるものでもない。自分はかぶらなくていい。そう思った。

 部屋の片隅で口を開けていた段ボール箱にかつらをしまい、テープできっちりふさいだ。返送用の伝票を貼りつけ、強風スポットのそばにあるコンビニから送り返した。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2017年11月18日掲載)

「政治評論家風」とスタッフが呼んでいたかつら。人毛を使った26万円の高級品。筑紫哲也さんのイメージ
今回のコラムに登場するかつら。近所の高層ビルのトイレで1枚

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