「難治がん」の記者 ネットコメントの裏にある不安やつらさを知りたい

働き盛りの45歳男性。がんの疑いを指摘された朝日新聞記者の野上祐さんは、手術後、厳しい結果を医師から告げられる。抗がん剤治療を受けながら闘病中。

*  *  *
 週2回の訪問看護を除けば、人が自宅を訪ねてくる機会は多くない。寒くなり、病院以外への外出はいっそう減った。そんな私にとって、こうしたネットでコラムを書くことは社会に通じる窓だ。

 更新されるとまず、フェイスブックで知人にシェアする。次の原稿を用意するかたわら、体調が悪くなった時のために、先の分までせっせとスマートフォンで書きためる。届き始めた感想に目を通す。コラムを中心に1週間が回る。載るごとに寿命が1週間短くなる。

 ネット、SNS、メール。人に会わないぶん、感想を眺めるのが楽しみだ。

 笑ったのは「その石、拾うから!」という知人からのメールだ。読者に思いを届け、広がる様子を「小石を池に投じ、波紋が広がる」とたとえたことへの反応だが、石を拾われては波紋が広がらない。「拾わないでほしい」と冗談で返した。

「お互いに肩を貸しあおう!」という友人によるSNSでの呼びかけもあった。私はコラムを人に読んでもらい、自分の励みにする時の心境を「肩を借りる」と表現した。だから「貸しあおう!」では私の意図と違ってくるが、相手はスクラムを組み、支え合うという意味で言っているのだろう。そう考えると、肩を貸してもらっている気分になった。

  ◇
 もちろん、感想がどれも好意的とは限らない。

「朝日新聞は(このコラムを書いている記者は、という場合もある)安倍政権を倒すためにがんを利用している」「記事のねつ造によるストレスががんの原因だ」といった趣旨のコメントも匿名で寄せられる。

 ただ、多少悪意を感じたとしても、ダメージを受けることはない。思い出すのは、黒澤明の映画「生きる」のある場面だ。がんで死期が迫っている主人公は、公園建設を自分にとって最後の仕事と思い定めている。それを快く思わないやくざ者から「てめえ、命、惜しくねえのかよ!」とすごまれて、どうするか。ただ、にやりと笑い返すのだ。

私のすい臓がんも完治しないし、長い共存も期待できない。だから、誰かに「死ね」と言われても、やっぱり同じような顔をしてしまう気がする。命の重さを相手が理解していることに、ほっとしながら――。

 それに比べたら、病気のことを少々言われても気にはならない。むしろ気になり、知りたい気持ちがどんどん強まっているのは、コメントをくれる方々のことだ。いま、どんなことに楽しさやつらさを感じ、何を大切にして日々過ごしているのか――。

 これは興味半分ではない。

 前に書いたことだけれど、私自身、抗がん剤の副作用でしんどかったときに、近くではしゃぐ見知らぬ子どもが「小鬼」のように思え、「去れ」と心の中で念じたことがある。自分だと気づかれないところで言葉を尖(とが)らせることと、匿名でコメントすること。その心境を推し量ると他人事に思えず、何か事情があるのではと考えてしまうのだ。

  ◇

週末の繁華街に出かけると、大勢の人たちがいる。ぐるりと見渡せる範囲内の人と、新聞記者としてこれまで会ってきた人。どちらが多いだろう?

 取材では、いろいろな生き方に驚くこともあれば、人間同士たいして違いはない、と感じることもあった。時には、記事を通じて役立てないだろうか、という気にさせられた。だから、匿名のコメントは見ないほうがいいと忠告してくれる人がいても、けっきょく読まずにはいられなかった。

 好意的でないコメントの一部には、あのときの自分のように、不安や辛さを抱えている人もいるのではないか。個人的な事情だとしても、政治や行政が絡むとしても、人に話すことで頭が整理され、気持ちがやわらぐことがある。もしその相手が自分でよければ、コメントで触れてもらえないだろうか。

 まず私にできるのは読むことだけだし、その時間がどれぐらいあるかはわからないけれど。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2017年11月11日掲載)

人々はいま、どんなことに楽しさやつらさを感じ、何を大切にして日々過ごしているのだろう…(※イメージ写真)

Follow me!