「難治がん」の記者 思い立った時、自分に確かめる「俺は死ぬんだぞ?」のつぶやき
働き盛りの45歳男性。朝日新聞記者の野上祐さんはある日、がんの疑いを指摘され、手術。厳しい結果であることを医師から告げられた。抗がん剤治療を受けながら闘病中。
* * *
「地獄だな、これは」と思った。
都内の病院に入院していた3カ月前のある夜。隣のベッドから、オーッ、オーッと叫ぶようにせき込む声が聞こえてきた。
ナースコールで駆けつけた看護師に、隣の男性がかすれ声で「痛い……」と訴える。
「ここ、痛いですか?」
「大丈夫……」
「あ、大丈夫ですね。何かあったら呼んでください」
そのまま去っていく足音が聞こえて、びっくりした。
え? 「ここ」以外に痛いところがあるってことじゃないの?
それで看護師が済ませたのには、何か理由があるんだろう。だがその中身がわからないから、隣の男性にとっての地獄が耳の向こうに広がっているように感じた。
差額ベッド代を払って静かな個室に移ることはできる。しかし、それは自分の将来から目を背けることに思えた。この夜を忘れまいと、消灯後の闇の中でノートに書きつけた。
なおも続く叫び声と、私。隔てているのは、風に揺れる薄いカーテンだけだ。
●心地よいのは強い抗がん剤を使えなくなったから
後輩記者が3人連れで見舞いにきたのは、ちょうどそのころだ。
「あれに野上さんがかなり怒っているんじゃないかっていう、ブラックジョークがありまして……」
自民党議員の「このハゲ」発言だった。
病院内には「すごいよね」と言いながらまねる中年女性がいた。ヒステリックな音声がテレビから聞こえてくるたびに笑いが込み上げてきたが、後輩のひと言で我に返った。
そうか、俺もハゲだった。
その頭も今はふわふわとした髪の毛に覆われている。長らく付き合ってきた手足の指先のしびれは弱まり、貧血や、おなかが絞られるような痛みもなくなった。3日前、用事で勤め先を数カ月ぶりに訪れると上司から「今までで一番調子がよさそうだ」と言われた。
実態は、血液検査で示されるような「体力」が弱まり、強い副作用がある抗がん剤を使えなくなっただけなのだが。帰りの電車で足ががくがくと震え始め、「やっぱり病気なんだな」と家で配偶者にこぼした。
不思議なものだ。無意識に防衛本能が働くのか、体がしんどくないと、叫び声の一夜に実感した「死」の手触りが遠のいてしまう。
配偶者とお菓子をつまみながらテレビでお笑いを見る。ベッドで本を開いたものの、日付が変わらないうちにうとうとし始める。そんな小春日和のような幸せに、どっぷり漬かりそうになる。
だから逆に、ふと思い立った時には「俺は死ぬんだぞ?」と自分に確かめることにしている。当然、気分はざらつく。しかし、私の場合、ものごとを突き詰めて考え、書くというもう一つの幸せを味わうには、時間に限りがあるという切迫感が欠かせないのだ。
●誰もが持つ寿命の砂時計
最近読んだ中野翠著『この世は落語』(ちくま文庫)にこんな一節があった。
珍しく生真面目な気分のひとときを過ごし、何となく魂を浄化されたような、ある種の「いい気持」になる――それもまた娯楽なのだ。
その意味では私のコラムも、一種の娯楽かもしれない。そう考えたらつい、おさまりが悪いことも時には書き、読む方に問いかけたい気持ちがわいてきた。
ベッドに寝ていると時々、へそのわきにある人工肛門から便がもれ出す。便と連想するあの匂いはないけど、固形物が混じったどろどろの色水だから、コップ一杯のジュースをこぼしたぐらいの騒ぎにはなる。寝転んだまま両足をあげ、下着とズボンにはき替える。この姿、何かに似ているなと思ったら、小学生のころに飼っていたカブトムシだった。
おがくずの上にひっくり返ったまま6本の足をキシキシいわせる。やがて電池が切れたように止まる姿は将来の私だ。
さて、あなたの死はどうだろうか。
「死」を意識しないですむのは幸せだが、意識してはじめて味わえる幸せもあると痛感する。だから、心地よくはないだろうけど、重ねてお尋ねしたい。
誰もが一つずつ持っている寿命の砂時計。終わりに向かって今もサラサラと落ち続ける、その音が聞こえますか。
(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2017年11月4日掲載)
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