「難治がん」の記者 「なぜ病気になった?」の問いに改めて考えたこと
働き盛りの40代男性。朝日新聞記者として奔走してきた野上祐さんはある日、がんの疑いを指摘され、手術。厳しい結果であることを医師から告げられた。抗がん剤治療を受けるなど闘病を続ける中、がん患者になって新たに見えるようになった世界や日々の思いを綴る。
* * *
がんになって聞かれた質問で一番答えにくかったのは「なんでがんになったの?」という、ある閣僚からのひと言だ。答えるのがつらいわけではない。単純に理由がわからない。
「東京五輪は見られそうなの?」
「難しいんじゃないですかね」
「なんでがんになったの?」
「さあ、どうしてなんでしょう」
「運命か?」
「まあ、運命なんですかね」
某省の大臣室で雲をつかむような問答をした後、やれやれ、といった感じで相手は言った。「じゃあ、俺たちの参考にならないじゃん」そりゃそうだと思ったが、同席していた後輩記者は表情を強張らせた。聞きようによっては冷たい一言である。後輩に気をつかわせてしまい、気の毒なことをしたなと思った。
なぜ病気になったのか。
それはがんに限らず、難しい病気にかかった患者の多くが考えることだろう。私も昨年1月にがんの疑いを指摘された後、頭をよぎらなかったと言えば嘘になる。当時は体重が今よりも30キロ近く重かった。飲み食いした肥満によって病気のリスクが高まったのか。ぼんやり考えた。
それで後悔に襲われたかというと、そうでもない。人は自分の間違いを認めたがらないものだから「強がってないか?」と自らに改めて問いかけてみたものの、やはり心がざわついてくることはなかった。
なぜだろう。
がんになって暮らしは一変した。新聞記者としての仕事はほとんどできなくなり、日常生活も不自由の連続なのに。
それでも「まあ仕方ないか」と割りきれるのは、いくつか理由があるけれど、病気になる前に福島で過ごした一瞬、一瞬の思い出が大きい。
直前に人間ドックの結果を知らされ、これが最後の仕事になるのだと思い定めた全国版での連載や、それまでの様々な仕事。それをめぐる知恵も、滑った転んだの笑い話も、福島の街で仲間と遅くまで飲んだり食べたりするにぎやかな夜から生まれた。
たとえば。
翌日の勝負に向けて同僚たちとファミリーレストランで策を練ったあの夜。
連載記事にアクセントとして登場するホッケの開きをみんなでつついたあの日。
勝ち続けた彼らと泊まりがけで会津地方の温泉旅館に出かけた打ち上げ。
そして、仙台での打ち合わせがうまくいった後、深く信頼していた仲間とちょっと寄っていくかと誘いあい、日本酒で祝杯をあげた夜。
――だめだ。もう書けない。
ああした晴れがましさや弾けるような喜び、緊張感の思い出がすべて消えて、代わりにがんのない自分が残るのだとしたら(というのはかなり極端な仮定だけれど)それがいかほどのものだろうか。まあ、それはそれで悪くない、という考え方もあるだろうが……。
チェコの作家ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』は好きな小説の一つだ。冷戦下のチェコスロバキアで起きた「プラハの夜」を背景に、複数の男女の恋愛模様が描かれている。人はいく通りもの人生を生き比べることはできないと、読むたびに思う。あのときこうしていたらという「たられば」を空疎に感じる気持ちは、がんになってより強まった。
このところコラムで取り上げてきた衆院選が先週、終わった。
投開票から2日後の24日。寝床でスマートフォンをいじりながら朝刊を読んでいると、「共闘実現していたら」という記事があった。
立憲民主、希望、共産、社民、野党系無所属の候補の得票を「単純に合計する試算を行なった」ところ、与党候補が勝利した選挙区のうち「63選挙区逆転」の結果が得られたという。
確かに、野党共闘が進んでいれば議席数は実際より多かっただろう。だが仮にそうだったとしたら、今回ほど各陣営が競って得票数を伸ばすこともなく、63議席には届かなかったのではないか。
今後に向けた頭の体操としてはわかる。けれども、それを元にして、ああしておけば……といった話が聞こえてくると、それはちょっと違うのではという気がしてくるのだ。
光あるところに影がある。ものごとにはマイナス面があれば、たいていプラス面もあるものだ。過去を参考にするのはいいが、その片方だけ見て「たられば」を語っても仕方ない。
いつも大切なのは、将来に向かって足元からのびていく「いま、ここから」だ。それは政治もそうだし、たぶん人生もそうなのだろう。
(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2017年10月28日掲載)
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